2011年8月7日日曜日

ミュージシャン・YOSHIKI(1) 絶対に世界で結果を出してやる



小松成美


 108年前にロンドンで誕生したコンサートホール「O2シェパーズ・ブッシュ・エンパイア」。ローリングストーンズやデビッド・ボウイ、ザ・フー、オアシスといった後に世界を席巻するイギリスのロックスターたちが出発点としたこの舞台に、2011年6月28日、X JAPANが立った。


新人と同じ野心と情熱


 初の欧州ツアーの初日、X JAPANのリーダーであるYOSHIKIは、立錐(りっすい)の余地なくホールを埋めた観客を前に、早鐘のように打つ鼓動を感じていた。

 「18歳で館山から上京し、小さなライブハウスで演奏を始めた頃のことを鮮明に思い出していました。自分たちの音楽を届けたいという情熱と、必ず頂点に昇ってやるという野心を胸に生きていたあの頃のことを」

 東京ドームの5万5千人を前にした壮大な陶酔感とは別な、無闇(むやみ)に猛(たけ)る感情を彼は愛(いと)おしく思った。

 「まさに新人バンドの気分ですよ。日本での実績やポジションなんて、一切頭になかった。Xのライブに初めて訪れた人たちを虜(とりこ)にしてやるという意気込みと、自分たちの音楽が必ず受け入れられるという自信と、ただ今ある激情のまま突っ走るんだという思いが、螺旋(らせん)になって体の中を渦巻いていましたね」

腕を交差させ「X(エックス)」と叫ぶイギリスの若者を前に、YOSHIKIはツーバスをセットしたTAMA製のクリスタル・ドラムを激しく打ち鳴らす。この日、世界配信された新曲『JADE(ジェード)』がオープニングで披露されると、4階まである客席がファンのストンピングで揺れ始めた。全編英語の歌詞をボーカルのToshiが歌いあげると会場の熱は一気に上昇していった。YOSHIKIは言った。

 「日本のロックバンドがアメリカや欧州で通用するはずがない、そう言われていることなど百も承知ですよ。でも、だからこそやってやろうじゃないかという気持ちが湧き起こる。Xがアマチュアで活動した頃も、メジャーデビューした頃も、『Xなんて売れるはずがない。トップに立てるバンドじゃない』と言われ続けてきた。そんなふうに言われれば言われるほど絶対に結果を見せてやるという強い気持ちが持てました」

 アンコールを含め、全10曲を終えると、YOSHIKIは会場のファンに語りかけ、やがて客席にダイビングして、ファンの両手に身を任せた。

 「Xで活動し始めた頃のように暴れ回ってしまうんですよ。もう、生傷と打撲が絶えないけど、ファンを前にすると逸(はや)る心が抑えきれなくて。最初に世界ツアーを夢見たのは小学生のとき。92年8月にはNYのロックフェラービルで海外進出の記者会見を行いました。20年かかっちゃいましたけど、思い続ければ夢は叶(かな)うんですよね」

このツアーの活況と呼応するようにiTunesで配信された『JADE』は、ロックチャートで、日本はもとより、スペインとスウェーデンで1位を、フィンランドで4位、フランスで7位、ドイツで9位を獲得してしまった。

 欧州ツアー8カ月前に行われた全米ツアー。10年9月25日のロサンゼルス公演から10月10日のニューヨーク公演まで7カ所7公演を行い1万9300人を動員したアメリカ公演に先駆け、米メディアはYOSHIKIに対し異例ともいえる反応を見せていた。ロサンゼルス・タイムズやUSATODAYが彼の特集記事を掲載し、全米3大ネットワークのひとつABCは、プライムタイムの「ワールドニュース」で「日本からの輸入品」と題しYOSHIKIを克明にリポートした。イギリスから“輸入”され全米を震撼(しんかん)させたビートルズになぞらえ、YOSHIKIと彼が率いるXがそれに続く存在になると紹介したのだ。翌日には彼の元に数十のメディアから取材が申し込まれることになる。

 欧米の人々の心を掴(つか)む日本文化の中で、ゲームやアニメーション、漫画、ハローキティなどのキャラクターと同一線上にあるX JAPANは、クールジャパンの象徴として認知されてきた。毎年夏にサンディエゴで開催されるコミコン・インターナショナルでX JAPANやYOSHIKIが話題に上がるようになったのは90年代からのことだ。が、現在、YOSHIKIの周囲に起こっている化学反応(ケミストリー)は、サブカルチャーへの興味や一過性のブームとは一線を画するものである。


世界進出のドリームチーム


 「X JAPANの体制を一新したんですよ。10年の初め、僕がそれを決断しました」

 当時、それまでX JAPANがCDの販売やコンサート運営を契約していた会社がYOSHIKIやメンバーに支払うべき印税や前払い金を支払わず、不正な経理が露呈したため、YOSHIKIは提訴の準備をしなければならなくなっていた。家族のように親しい顧問弁護士のエリック・グリーンスパンにはXが日本で置かれた状況を説明し、新しいマネジメント体制を築きたいと告げていた。

 「僕にとって父のような存在でもあるエリックは、アメリカの映画や音楽といったエンターテイメント界では知らない者がいない実力者です」

 エリックはYOSHIKIにある男の名前を告げた。

 「エリックが以前、僕に紹介してくれたマーク・ガイガーが、アメリカで最も大きなエージェント会社であるウィリアム・モリス・エンデヴァー・エンターテイメントにヘッドハンティングされたところだったんですよ」

 YOSHIKIと同じ歳(とし)のマークは、出会った頃、音楽配信をメーンとしたネットビジネスで隆盛を極めるベンチャー企業のCEOだった。エリックの紹介で出会った2人は多くの時間を有さず、親友になっていた。

 「マークがウィリアム・モリスにいるなら迷うことはなかった。すぐにエージェントを任せることにしたんです」

ウィリアム・モリスは、クリント・イーストウッドやナタリー・ポートマンといったムービースターや、エミネム、ローリングストーンズらトップミュージシャンと契約を結ぶエージェンシーだ。その主要メンバーとなったマークはYOSHIKIの才能を最も認める者の一人として、YOSHIKIに、X JAPANのアメリカや欧州での成功の可能性を熱く説いた。もちろん、プロデューサーでもあるYOSHIKI自身にも世界進出のための緻密なロードマップは描けていた。

 「08年に映画『ソウ4』の主題曲として『I.V.』を提供し、iTunesで全世界23カ国同時発売が配信され、ずっと公言していた“世界進出”が一応形になったんです。しかし、僕が目指していたのは海外で本格的なツアーを行うこと。すぐに決断し、彼らとともに全米デビューと本格的なツアーを計画することにしたんですよ」

 資金を管理するビジネスマネジャーも、Xのポテンシャルを示すため戦略を練るマネジャーも、世界のメディアに対応するパブリシストも、最高のメンバーがYOSHIKIの夢と自信に賛同し、集(つど)った。

 もはや彼に迷いはなかった。

 「10年8月、米国最大のロックフェスティバル、ロラパルーザへの出演を決めたんです」

 YOSHIKIの新たな挑戦は、このドリームチームとともにスタートしたのだった。

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【プロフィル】YOSHIKI

 2007年に再結成したロック・バンドX JAPANのリーダー。夏フェス「サマーソニック」のメーンアクトとして13日大阪、14日東京に初登場。                   ◇

【プロフィル】小松成美

 こまつ・なるみ ノンフィクション作家。第一線で活躍する人物のルポルタージュを得意分野とする。著作に『中田英寿 誇り』『勘三郎、荒ぶる』(幻冬舎)など

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